あくまのこ
出会い
しとしとと雨の降る日だった。会社から出て電車に乗り、最寄駅近くのコンビニに寄ってから傘を広げて家に帰ろう……としたら、コンビニの陰に何かがいた。
昔事故で左眼を失って、運良くドナーが見つかり眼の移植手術を受けて以降、この左眼はこの世のものでないものも映すようになった。
その何かは、そのこの世のものではない異形のもののようだった。
興味本位で覗き込んでみたら、黒髪の少年……のように見えるけど、角と尻尾がある。やはりこの世のものではない。しかし、うずくまって震えている。
関わってもろくな事にはならない、と思いつつも子どもがひとり雨の中震えながらうずくまっているのを見捨てるのも気が引ける。
俺はしゃがんでその子どもに声をかけた。
「お前、仲間とはぐれたの?」
ピク、と尻尾が揺れた。そっと顔を上げた黒髪の少年の瞳は吸い込まれるような赤色で、迂闊にもその瞳に引き寄せられるところだった。
やっぱり声かけるんじゃなかった。
少年が何も言わないのをいい事に、そのまま何もなかったかのように立ち去ろうとしたらコートの端を掴まれてク、と抵抗を感じる。
「なんで俺が見えるんだ」
顔だけその少年の方を見ると無表情で俺を見上げている。
「……ちょっとね。俺は帰るからさっさと仲間のところに行きな。」
コートを引っ張ってその手を振り解く。早足で家に向かって歩いていくが……着いてきている。あんな眼を持つ異形と関わるのはあまりいい事態ではない。
振り返って、少し脅すように言った。
「着いてくるな、俺に関わっても碌なことはないよ。」
暗い夜道でもわかる赤い瞳がまた俺のこころを揺さぶる。あの眼を見たらだめだ。
「さっさとどっか行け。」
俺はまた早足で家路を急ぐ。もう後ろをついて歩く気配はなかった。少し安心してマンションの扉の鍵穴に鍵を差し込むと、バサッと音を立てて俺の隣に何者かが降り立った。何者かは見なくてもわかる。あの少年だ。あの瞳、角、尻尾、そして翼、……悪魔の類だろう。
「どういうつもりかな。」
怒気を孕んだ口調で目もくれず言ってみた。頼むからどっか行ってくれ。
「帰るところはない。仲間もいない。腹減った。食わせてくれたら……どっか行く……から。」
「食うって、お前何食うんだよ。」
「ヒト」
……声なんかかけるんじゃなかった。子どもの姿であろうが異形は異形だ。
「却下だ。諦めろ。」
扉を少しだけ開けて滑り込むように中に入って鍵をかける。ふう……とため息をついた瞬間、息を呑んだ。異形の少年は扉などなかったかのようにすぅっと通り抜けて入って来たのだ。
「食わせてくれたらどっか行く。やく……ええと、やく、そく。やくそく、するから。」
部屋の中にまで入られてしまうともう、逃げ場がない。言いくるめるのもこの調子じゃ無理だ。あの眼に魅入られてしまったら多分すごく厄介な事になる。
「……わかった、俺が今から言うことを守るなら食わせる。ひとつめ、眼を閉じろ、俺が眼を開けて良いと言うまでずっとだ。ふたつめ、俺がストップと言ったら腹一杯でなくても食うのをやめろ。みっつめ、食ったらもう二度と俺に関わるな。いいな。」
「食ったら夢を見せるのが俺たちのきまりだからみっつめはだめだ。」
「じゃあ交渉決裂、さっさと他所行け。」
夢を見せる悪魔……インキュバス? こんな子ども……だけど見た目に騙されてはだめだ。
しっしっと手でどっか行けと示したところで、頭に機械音が響いた。
『Apply Japanese.交渉決裂につき強制執行に入ります。』
何だこれ、と思う間もなく俺の目の前に子どもの顔があって、その赤い瞳の中の紋様がくるりと回る。
『目標確保。魅了措置完了。食糧確保プログラムを実行します。』
機械音の言葉の意味を追いかけているうちに意識が回らなくなって、プツンとテレビの電源を切ったように俺は目の前が真っ暗になった。
「俺はさ、人間とか動物とかそれ以外とか関係なく皆と仲良くなりたいんだ!」
ジャングルジムのてっぺんで豪語するオビトを見て、リンと一緒に笑いながら答える。
「それ以外って何だよ。今日はボール遊びはしないのか?」
「あっ! するする! 今日はサッカーな!」
大きくジャンプして地面に降りた後、俺たち三人はボールを蹴って、パスを回して遊んでいた。
オビトの蹴ったボールが高い軌道で公園のフェンスを乗り越えていったのをリンが追いかける。道路まで転がったボールを取ろうとしゃがんだリンに迫っていたトラック、オビトは「リン逃げろ!」と叫びながらその背中を押して、急ブレーキのけたたましい音と共に二人の姿は見えなくなった。
「オビト!!」
音を聞きつけて大人がやって来る。トラックの運転手が降りてきて口を手で抑えた。トラックの下を確かめようとする俺を大人が止める。
間も無く聞こえてきた救急車と消防車のサイレン。そしてパトカー。俺は近寄らせてもらえなかった。ただ泣き叫びながら親友の名前を呼び続けた。
俺は通夜に参列した。夢だったんじゃないか、オビトはまだ元気に走り回ってるんじゃないか、そう思いたかった。七五三で撮られた写真がモノクロームになって笑っている。棺の中は見ない方がいいと言われた。現実感がないまま焼香を済ませてからふと気づく。……そういえば、リンの姿がない。キョロキョロ見回してから、父さんに聞いた。
「父さん、リンは?」
父さんは困ったような顔をした。
「リン……って誰だ? 友達か?」
え?
何度も家に呼んで三人で遊んだのに、父さんがリンのこと知らないわけがないのに。
「よくオビトと一緒に三人で遊んでた女の子だよ、父さん」
父さんは困惑しながら俺の両肩に手を添える。
「お前はいつもオビトと二人で遊んでいたじゃないか。」
どういうことなんだ。
誰に聞いても皆リンのことを知らない。まるで最初から存在していなかったかのように、そんな子いた? と返される。
嘘だ、俺たちはいつも三人で……そうだ、写真、三人で撮った写真があったはずだ。
机の引き出しをあさって写真を取り出す。オビトと俺がピースしてる写真、ここにリンもいたはずなのに、……写っていなかった。
泣きながら父さんに訴えた。
「リンはいるんだ、だっていつも一緒に遊んでたんだ、探してよ、ねえ父さん!」
そう言って聞かない俺を、ある日父さんは大きな建物の中にある、小さい部屋まで連れてきた。部屋には優しい顔のおばさんがいて、俺の話を聞いてくれた。オビトとリンとの出会い、思い出……それを誰も覚えていないこと、オビトを失って、リンまで消えてしまって、俺はぼたぼた涙をこぼしながら訴えた。リンは絶対にいたんだと、今もきっとどこかにいるんだと。
おばさんはひと通り聞いた後、ゆっくりと優しく俺に話しかけた。
「誰にでもこころの中にお友達がいるの。そのこころの中のお友達が、本当にいるように感じることもあるのよ。カカシ君のこころの中のお友達は、きっとカカシ君と一緒に遊びたかったのね。」
こころの中に……? でもオビトだって一緒に遊んでたじゃないか、そうだよなオビト。
そこで俺はオビトがよく言っていた言葉を思い出した。
『人間も、動物も、それ以外でも』
オビトが言っていた『それ以外』って、まさか。
帰り道、父さんと一緒に呆然と歩いていた。リンは存在しなかった? でも俺のこころの友達なら、まだリンはどこかにいるはずだ。そうじゃないとおかしい。
帰り道にあるスーパーから悲鳴が聞こえてきて父さんが俺をその背後に隠す。飛び出してきた黒い服の大人、手に何か持って……? 父さんが走り出してそいつに向かって行く。取っ組み合いになった末に、地面に落ちた光るものを拾ってそいつが俺の方に走って来る。
「カカシ!!」
父さんの声が聞こえたと同時に左目が燃えるような熱さを感じた。続いて鋭い痛み。更に光るものを振り下ろそうとするそいつを父さんが後ろから羽交締めにして、他の大人たちもなだれ込むようにそいつにのしかかる。
「救急車も!!」
誰かが叫んだ。俺はいつの間にか膝から崩れ落ちて次々と地面に落ちる真っ赤な液体を見ていた。
オビトのお母さんが、病院の廊下の椅子で両手で顔を覆いながら泣いている……こんな場面、俺知らない。
その膝には、一枚の紙が置いてあった。
〝俺に何かあったら、俺の使える臓器全部必要な人にあげてくれ。母ちゃん、頼んだ!〟
オビトの字……まるで死を予感していたかのようなメッセージ。オビトらしい……けど、オビトは……本当に……。
おばさんの座っている椅子の目の前の扉が開いて、水色のエプロンみたいなもので身を包んだ人がおばさんに何かを言った途端、おばさんは床に崩れ落ちた。膝の上にあった紙が、そのおばさんのすぐ目の前に落ちる。
おばさんはその紙を拾って、水色の人に差し出した。
「……まだ、これは間に合いますか、オビトの想いは叶えられますか……?」
差し出された紙を見て、全身水色の人は頷いた。
「お願いします……あの子の願いを……。」
どれだけ時間が経っただろう、再びおばさんの前に出てきた水色の人がおばさんに言った。
「ほとんどが……だめでした。ただ、左目だけは無事です。オビト君の想いは、繋げることが出来ます。」
俺が病院のベッドで寝ているのが見える。顔の左側には白いものが何だかいっぱいついていた。
病室に入ってきた父さんが、俺の頬に触れる。
「運良く……適合するドナーが見つかったよ、カカシ……。その人の分まで、しっかりと生きなさい。」
……待ってくれ、オビトが唯一残した左目……俺の左目のドナー……まさか、そんな、嘘だろ。
眠ったままの俺が手術室に入って行くのを見つめていたら、肩に誰かの手がのった。その手の主を見たら……リンがそこにいた。
「リン……!」
「……ごめんね、私はオビトのイマジナリーフレンドだったの。オビトを介してカカシにも私の姿が見えていた。……ごめんね、ひとりぼっちにさせてしまって……。でもオビトには、私がついてるから。私も一緒に行くから。私たちの分まで、あなたは生きて、カカシ……一緒に遊んでくれて、ありがとう。」
リンは空気に溶け込むように消えていった。俺を一人残して。……違う、一人じゃない。俺の左目には、オビトがいる、オビトの意思が、想いが、俺に生きろと言っている。
……そうだ、生きなければ。人間も動物もそれ以外も、そのオビトの想いも背負って、これからは……。
目を開けたら、いつもの天井。枕に冷たい濡れた跡が残っている。長い……長い夢だった。身体を起こすと、くらっとする。眩暈? 目元を抑えて収まるのを待っていたら、ベッドに何かが駆け寄ってきて俺の顔を覗き込む。
「おきた? ……ごめんなさい、食べすぎた。だから夢もいっぱいにした。けどごめんなさい。」
赤い瞳の黒髪……そうだ、なんか変な機会音の後、目が。……食べすぎた、って、何を食われたんだ一体。
「あんたの血、美味しかった。やくそく……だから、もう、来ない。別の人間探す……。」
「ちょっと待てよ……、お前ただの悪魔じゃないだろ。あの変な頭に響く声は何だったんだ。答えてから行け。」
少年の悪魔は首をかしげた。その目の紋様がまたカシャ、と機械仕掛けのように動く。同時にまた機会音が頭に響く。
『半妖対人兵器試験型Ver.5.2、研究所脱出後寄生先探索中、あなたは俺を受け入れますか。』
はんよう……何って?
『半妖対人兵器試験型Ver.5.2、研究所脱出後寄生先探索中、あなたは俺を受け入れますか。』
受け入れ? そんなのお断りに決まって……る、けど、この目を俺にくれたオビトは……「それ以外」も関係なく仲良くなると日頃から言っていた。そのオビトの分まで生きるのなら、……受け入れなきゃ、いけないよな……。
はぁ……とため息が出る。オビトお前、こんなもん背負って、それでも笑っていたんだな。
「わかったよ、受け入れる。でも食い過ぎはもう勘弁してくれ……。」
ポケットの中のスマホが振動した。誰だろう。取り出してその画面を見て、目を疑った。日付が2日も変わっている。つまり二日間俺はぶっ倒れていたわけ? 血を飲まれすぎたから? いやいや、そんなに血を失ったら入院レベルじゃないか。ていうか会社!! 着信が何十件も入っていた。会社の番号と上司の番号と同僚の番号と。
「ごめんなさいじゃないよ何してくれちゃってんの!!」
少年は大声にビクッとしてから、しおらしく「ごめんなさい」と呟く。
しかしもう受け入れると言ってしまった。機会音声はは聞こえなくなったが、厄介な上変なオプションまでついたこいつの面倒をこれから見なければいけない。
「も~……勘弁して……そういやお前……名前とかあるの。」
尋ねると、少年は嬉しそうに笑った。
「サスケ! あんたは? なまえ!」
「俺はカカシ、……ずいぶん和風な名前なんだな……。」
「よろしくする? いっしょいい?」
「うんいいよ、よろしくな、サスケ。」
足をばたつかせて喜ぶ様子は子どもそのものだ。見たところ、人間基準で言えば5~6歳くらいだろうか。
これからどうするかなぁ……と思いながら、取り敢えず失った血液分の栄養を補おうと、台所に向かった。