手紙

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その他,全年齢,超短編一次創作

 朝早く起きてしまうのも歳のせいだろうか。ゆっくりと身体を起こして窓に目を向けると、空がうっすらと白みはじめていた。そろそろ新聞の子が来る時間だろう。
 物忘れが増えても、習慣は身体が覚えているらしい。
 玄関に出て、杖を片手に植木の花に水をやりながら待っていると、自転車がきいきいと音を出しながら近づいてくる。門を開けてその自転車に乗る青年に笑顔を向けた。
「おはよう、ご苦労様」
「おはようございます!今日も朝早いですね!」
 手渡された新聞。その後ろ姿を見届けてポストを開ける。そこにはいつもの封筒が入っていた。
 新聞と封筒を手に居間でゆっくりと腰かける。封筒には封がされていない。開けると一枚の便箋が入っている。
 近くに住むらしい。公園が居場所。父の虐待、母の無関心、公園で過ごす日々、ときおり震える文字。
 いつも最後に書かれているのは、死ぬための準備。
『包丁を出してみた。どこを刺せば死ねるか考える。切れ味は悪い。心臓なら。』
 しのは杖を手に公園を歩いて回るようになった。この遺書の子がいないか探したが、どこにも見当たらない。
 この子は本当に死んでしまうのだろうか。
 
 境遇と共に書かれた感情の発露、そして死ぬための準備が書かれている遺書がポストに入り始めたのは二週間ほど前からだった。それからは毎日朝ポストを開けると必ず入っている。
 それを読んでは忘れていた景色が浮かんでくる。
 空き地で地面に絵を描いていた日々。
 日が暮れてから貧しい家に戻り、怒鳴られながらわずかな食事。自分の部屋などない家の中、父から逃れるために押し入れに入る。狭くて暗いそこは家の中で唯一こころが落ち着いた。
 でも父は押し入れに隠れているしのを見つけて――しのはただ、ただ、耐えるしかなかった。
 焼け野原のあとに建った家。戦後の復興に努力する人々。その姿を見ては生きなければと歯を食いしばってきた。でもこの遺書の子は逆で、死ぬために少しずつ準備を重ねている。
 何を言えばいいのかはわからない。それでも、話を聞いてあげたかった。

 絵が描きたいと思っていた。けれど教科書には描けない。紙を買うお金もない。絵を描くことができたなら、こんな苦しさも忘れられる。
 しのの描く絵は風景だった。地面に書くから誰にも伝わらない。けれどそこには澄み渡る空と遠くに山々、そしてたくさんの屋根があった。
 
 見合い結婚で家を出るまで、父のそれは続いた。結婚後は穏やかだった。とはいえ、幸せでもなかった。子供を産めない身体だとわかって石女だと蔑まれ、夫とも最低限の会話だけ。冷たい目や言葉にも傷つきながら、それでもその生活の中には紙と鉛筆があった。
 唯一絵を描いている瞬間だけは自由でいることができた。それだけが救いだった。
 夫が先立ってからも絵を描き続けることはやめなかった。
 しかしある日、半身が麻痺して救急車で運ばれた。脳の血管が詰まっていたらしい。よくはわからないけれど、右の手足に力が入らなくなった。
 鉛筆を、筆を握ることもできない。
 遺書が届き始めたのはそんな折だった。
 
 鉛筆も握れなくなった今はもう、時計を眺めては食事をとるだけの日々。描き続けてきた風景の向こうへ行くこともないまま、つまらない生活を重ねる中に紛れ込んできた誰かの手紙。
 今朝は『あとは実行に移すだけ』と記されていた。
 わざわざこうして毎日手紙を投じるならば、きっと本当はまだ心残りがあるはず。
 しのは「生きなければ」と耐え忍んできた。
 その子は「死のう」と準備を続けてきた。
 話をしたかった。死ぬのはやめて、なんて言うつもりはない。ただ、実行に移すその前になんとか話だけでもしたかった。
 
 しのはその日眠らずに誰かがポストの蓋を開けるのを玄関で待ち続けた。ファンヒーターで暖かい玄関。眠りそうになりながら、何とか瞼を持ち上げて待ち続けた。
 カタンと郵便受けから音がしたのは、朝の4時。一番寒い時間だった。
「待ってちょうだい」
 しのは急いで玄関を開けて立ち去ろうとする小さな影の手を握る。
 この服、この痩せた腕、この子は……まさか。
 おかっぱ頭の髪が揺れた。
「私、なの……?」
 その子は振り向いて、こくりと頷いた。その身体をゆっくりと抱き寄せる。
「……ほんとうは、そうしたかったのね、私……。」
 生きなければ。
 そう思ってきた。
 つらい、かなしい、もう死んでしまったほうがいい。そんな感情や言葉は全部なかったことにして蓋をして、生きるために、今まで。
「ごめんねぇ……ほんとうは死にたいくらいつらかったのね……。こんな歳になって、やっと気づくなんて私、ばかね……。」
 その子の手を引き、抱きしめた。

「しのさんっ!! ええと、救急車!」
 いつものようにやってきた新聞配達の青年が、家の前で倒れるしのを見つけて冷たくなった身体を揺する。
 その姿は、まるで自分を抱きしめているかのようだった。

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