折れたこころ
回復
ナルトとサクラが見舞いに来てからのサスケの回復ぶりは目まぐるしかった。
毎日ダイニングテーブルに飾ってあるガーベラを見ながら食事をとり、トイレはひとりで行けるようになったし、シャワーもカカシの見守りのもと、ひとりで浴びられるようになった。
もちろん、調子が悪い日もありベッド上で過ごすこともあるが、そんな日も減っていった。
二十四時間の見守りの出番もないままでいる。
朝起きて、トイレに行ってから顔を洗い、玄関を開けて朝日を見る。
パジャマから着替えてテーブルで食事をとり薬を飲む。
歯を磨いてからは柔軟と軽い筋トレ。そしてカカシがサスケのために買ってきた、うつ病になった忍がどのように復帰したのかが書かれている本を読む。
自分だけじゃないんだ、ちゃんと元に戻れるんだ、と勇気を貰えたような気がした。
昼過ぎには、お医者さんが往診にやってきた。
ベッドではなく、テーブルでカカシと一緒に問診を受ける。
「よく頑張ったね、ずいぶんと良くなったみたいで安心しました。次回は往診ではなく通院にしてみましょうか。」
お医者さんは眼鏡の奥でやさしく微笑んだ。
薬は精神安定剤と抗不安薬がなくなり、抗うつ剤だけになった。寝る前の薬も内服から頓服に変わった。退院した時にもらった頓服はお守り代わりに、と残してくれた。
「先生、俺はいつ治りますか。復帰できますか。」
前のめりになって尋ねるサスケを、医師がたしなめる。
「私たちは治るという言葉はあまり使いません。症状が落ち着いた後も三年ほどは薬を飲み続ける必要があります。再発防止のためです。サスケ君の病気は再発率六割……高い割合で再発します。」
サスケの顔に落胆の色が滲む。カカシはサスケの肩を抱いた。
「ですが、薬を飲み続けることで再発率はぐっと下がります。もう薬を飲む必要はないだろう、と判断できた時に『治った』と言えるのかもしれません。」
……再発率。三年間。薬。
良くなっても、三年間はまた同じことを繰り返す可能性があるのか。
うつむいたサスケにカカシが声をかける。
「大丈夫だ、サスケ。ちゃんと薬を飲めばいい。俺もいるし、ナルトやサクラもいるだろ。お前は大丈夫だよ。」
サスケはガーベラの花に目を向けた。
「そう、だな。薬を飲み続ければ……。」
お医者さんが帰った後、テーブルで昼食をとりながらカカシはサスケに話しかける。
「午後、ちょっと散歩するか。ずっと家の中にいるのも飽きてきたでしょ。」
サスケは口の中のオムレツを飲み込んで、こくりと頷いた。
「行く。もっと身体を動かしたい。」
「うん、その意気だ。でも」
「わかってる。無理はしない。」
カカシは優しく笑って、ガーリックライスを口に運ぶ。
久しぶりの外。
今のサスケの目に、世界はどう映るのだろうか。
昼食後、歯磨きをしてリビングに戻ると、玄関にはサスケの靴が用意されていた。
その隣にカカシの大きな靴。
サスケが靴を履き始めると、家の中にいた影分身が姿を消す。
靴を履いたカカシが手を差し出し、サスケはその手を取った。
玄関を開けて外に出ると、そこには明るく眩い景色が広がっていた。
ガヤガヤと活気ある賑やかな商店街を通って、狭い小路に入り、公園に辿り着く。
季節は春から初夏に移り変わっていた。
植物が生き生きと茎を伸ばし、花をつけている。
草むらにはバッタが跳ねていて、その上を蝶がひらひらと花の蜜を求めて飛んでいた。
サスケはブランコに腰を下ろして、キィ、と揺らす。
人々も、植物も、虫も、皆生きようとしている。
その力強い生命力にこころを打たれた。
世界がこんなにも輝いて見えるなんて……手首を切っていた頃には、そんなこと想像もできなかっただろう。
その日から、朝の散歩が日課になった。
薬が減ってどうなるかなと、カカシは内心、心配していたが、そんな心配をよそにサスケは順調に回復していった。
ときには演習場まで足を運んで、軽く組手をして身体を動かすリハビリをする。
ずっと臥せってはいたものの、サスケはどんどん元の勘を取り戻していき、リハビリは組手から体術、体術から修行に変わっていった。
ここのところずっと精神的にも安定している。この調子なら、次の診察で復帰の許可が下りるかもしれない。
長かった療養生活に終わりが見え始めている。
カカシも、サスケも、それを感じていた。
「もう、復帰しても大丈夫ですよ。ただし見学から。少しずつ慣らしていきましょう。」
お医者さんの言葉に、サスケは安堵する。
復帰の許可が出たということは、もう普通の生活に戻っても良いということだ。
「ただし、薬は飲み続けてください。今回から処方を二週間にします。でも、調子を崩したら次回の診察を待たずにすぐに来てくださいね。」
カカシと一緒に頭を下げて、診察室から出る。
「ありがとうございました。」
待合室の椅子に座り、お互いに顔を見合わせると、笑顔でこぶしを合わせた。
帰り道、公園に立ち寄ってベンチに腰を下ろす。
隣にカカシも腰を下ろした。
太陽は西の空に沈もうとしている。
ザアッと少し冷たい風が草むらを揺らした。
「……カカシ、ありがとう。その……色々と。世話になった。」
カカシは赤く染まっていく西の空を見つめている。
「気にするな。俺がしたかったことをしただけだ。」
サスケも西の空に目を向ける。
今日という日がもうすぐ終わる。
今日が終わってしまえば……また、あの孤独な部屋に戻らなければならない。
「……なあ、カカシ」
「ん、どうした?」
「これからも、俺あんたと一緒に暮らしたい。」
カカシがサスケの目を見る。サスケは顔を伏せた。
「……まだ不安?」
「不安、も、あるけど……。カカシと一緒にいたいんだ。」
「そうか。……」
カカシはまた空に視線を移し、それ以上何も言わなかった。
静かに流れる沈黙に耐えられなくなって、サスケが口を開く。
「やっぱりいい。迷惑、だよな。わがまま言って悪い。忘れてくれ。帰ろう。」
そして立ち上がろうとしたサスケの腕を、カカシが掴んだ。
「……三年だ。少なくとも三年間は、一緒に暮らそう。」
その顔は優しく笑っている。
「いい、のか……?」
「その方が、俺も安心する。それに約束通り、サスケを強くしなきゃいけないしね。」
こころの底から、何かがこみ上げてくるのを感じる。
これは、この感情は……嬉しさだ。
「ありがとう……カカシ。」
熱くなる目頭を必死に堪えた。
伝えたいことはもっとたくさんあるのに、言葉に出てこない。
カカシが俺を必要だと言ってくれたように、カカシは俺にとって必要な存在になっていた。
カカシはいつでも俺の言葉を受け止めてくれた。手を握ってくれた。抱きしめてくれた。
あの日から抱え続けていた俺の孤独をカカシは包み込んでくれた。お前はもう、ひとりじゃないと言ってくれた。
西の空に太陽が沈んでいく。
今日が終わっていく。
でも、カカシが一緒にいてくれるのなら、もう夜も怖くない。
ずっと、ずっと一緒にいたい。
これは甘えだろうか。
依存だろうか。
それとも、……いや、何だっていい。
これからも、一緒にいてくれる。
その事実だけで、十分だ。
カカシが立ち上がって、手を差し伸べる。
俺の手を握ってくれた、抱きしめてくれた、頭をなでてくれた。その大きな手に、サスケは手を載せて握り、ゆっくりと立ち上がった。
「さ、帰ろ。」
手のぬくもりを感じながら、小路を抜けて商店街を通る。
喧騒から少し外れたところにある、五階建てのマンションの階段を上って二階にあるカカシの家の前に、ふたりで帰ってきた。
俺はもう、ひとりじゃない。ひとりで抱え込まなくていい。
カカシがいてくれる。……ナルトも、サクラもいる。
俺の、大切な存在。帰る場所。
「ただいま」
サスケが玄関に入りカカシの顔を見上げると、カカシと目が合う。
カカシはにこっと微笑んだ。
「これからも、よろしくね。」
「それはこっちのセリフだ、ウスラトンカチ。」
それからふたり、笑いあった。