折れたこころ

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全年齢,長編,原作軸,完結済み,カカサス小説シリアス,平和IF

 サスケの身じろぐ気配でカカシも目を覚ました。時計を見ると夜の7時過ぎだった。
「サスケ、よく眠れたか?」
 サスケはまだぼんやりしているようだった。うとうとしながら「ん……」とどっちつかずな返事をする。
「夕ごはん、どうする?おにぎり食べれそう?」
 サスケは黙って少し頷く。
 カカシは印を結んで影分身を出すと、キッチンに向かわせる。冷蔵庫にある小さくて丸い一口サイズのおにぎりを取り出してレンジで少し温め、薬用の水、そしてストローをお盆に載せて寝室に戻ってきた。
 おにぎりを包むラップを外して、サスケの口元に持っていこうとすると、サスケはそれを自分の手で持とうと右腕を伸ばした。カカシはその様子を静かに見守る。1ミリも動けなかったサスケが自分から動こうとしている。それは喜ばしい変化だった。
 ゆっくりと腕を伸ばしておにぎりを手に取ると、それをまたゆっくりと自分の口元に運ぶ。そして口を開けて半分ずつ食べ、もうひとつ、と言うようにまた腕を伸ばす。カカシの影分身はもうひとつおにぎりのラップを外して、サスケに渡す。
 二人のカカシが見守る中、サスケはゆっくりとおにぎりを食べる。
 そうして小さいおにぎりを3個食べると、「……もう、いい」とはっきり口に出して言った。
「食べれたな、サスケ。自分で出来たな。頑張ったな。」
 頭をくしゃっと撫でると、もどかしそうにカカシの胸に顔を埋める。
「食べた、だけだ。……そんなに偉いこと、したわけじゃない……」
「でもここ数日自分で食べるのは出来なかっただろ。それが出来るようになったんだ。少しずつだけど、回復してるんだよ、サスケ。俺は嬉しい。すごく嬉しいよ。」
 もぞ、とサスケの頭が動く。
 
 回復、してる。
 良くなっている。
 ただ自分の手でおにぎりを持って食べただけなのに、カカシは凄く喜んでいる。その様子を伺うと、サスケも何だか嬉しい気持ちになってくる。
 ……嬉しい、なんてポジティブな感情を持てたのは、いつぶりだろうか。もう長いこと感じていなかった気がする。
 そう、あの時だ。意識が戻ったとき、敵の攻撃から庇ったナルトが無事で、サクラも心配そうに俺を覗き込んでいて、俺も生きていて、ああ、よかったとあの瞬間、ホッとしていた。生きてた。良かった。みんな無事で。敵も倒れていて。その後、俺が仮死状態になっていて、敵の情けがなければ死んでいただろうと知るまでは。
 また、醜く生き残った。
 また、俺は力が及ばなかった。
 ナルトを庇ったからとは言え、俺がもっと強ければ、他にもっと立ち回ることは出来たはずだ。……俺は、弱い。弱い俺なんて、必要ない。弱い俺なんかが、復讐なんて出来るわけがない。イタチを憎む気持ちは変わらない。けれどイタチを殺せない俺なんか生きている意味がない。
 そう思い始めてから、どんどん何かが変わっていった。何がどう変わったのかはよくわからない。道端に咲く花を見てきれいだな、と思っていた俺はいなくなった。早起きした日に朝日が昇るのを見て、今日も頑張ろう、と思っていた俺はいなくなった。日常からポジティブな感情が消えていって、モノクロームに染まっていった。
 ああまた一日が始まる、また任務に行かなければいけない、今日も演習か、と義務的に身体を動かして、それがしんどいと感じ始めた。こころの中ではずっと弱い自分を責めていた。自分の足を殴り始めたのはその頃からだった。今の弱い俺は生きている価値があるのかと。あのときも、波の国でも、死んでいた方が良かったんじゃないかと。なんで俺なんかが生き残っているんだと。そうだ、死ぬべきだったんだ。今からでも遅くない。死んで全てを終わらせよう。死にたい。生きていたくない。すべて投げ出したい。死にたい。頭の中で渦巻く俺を詰る怨嗟の声がどんどん大きくなっていった。俺は泣きながらクナイを右手首に当てていた。少し力を込めてスッとなぞると、鋭い痛みと真っ赤な血が滲んで、こころがストンと落ち着いた。一度切ってからは、しんどいと思う度に傷を作るようになっていった。
 カカシが俺を呼び止めたのは、そんな折だった。
 連れていかれた病院で、医者が何か話していても、言葉は耳に届いているはずなのに、右から左へ流れていくように俺の頭には何も残らなかった。カカシが言った薬を飲めば良くなるという言葉だけが頭に残って、貰った薬を全部飲めば楽になれると思った。でもそれは止められて。手首の傷を見られて抱きしめられて。お前のこころはこんな傷よりもっと痛いんだろと言われて。足を殴ろうとするのを止められて罰なんて必要ないと言われて。
 俺はずっと緊張して張りつめていた糸がプツンと切れたように身体が重くて動けなくなった。
 カカシが呼び止めていなければ、俺は腕を切り続けていただろうし、足も殴り続けていただろう。頭に渦巻く声のままに、死のうとしていたかもしれない。
 カカシは病気だからだと繰り返し言った。食べて、薬を飲んで、寝る。それだけをすればいいと繰り返し言った。俺が弱いから病気なんかになったんだと言うのを否定した。そう思うのは病気のせいなんだと、何度も何度も言われて、カカシの言う通りにすればこの頭に渦巻くものは消えていくんだと信じることにした。
 ……なのに、食べて、薬を飲んで、丸一日中寝ていても、頭の中がもやもやしていくばかりで、渦巻く声は止まらない。ついには全然動けなくなって、情けない、死ぬべきだ、死にたい、という気持ちばかりが膨らんでいった。言葉を口にすることすら億劫になって、それでも頭の片隅に残っているカカシの言葉を信じて、どうにか生きていた。でも、ただ生きているだけで、何もできなかった。手首には包帯を巻かれていて、クナイもないから切れない。切るために身体を動かすこともままならない。ただ生きてここにいるだけ。それがつらかった。でも、カカシはそんな俺でもいいと、生きてここにいるだけで価値があると言って抱きしめてくれた。信じられなかった。でも繰り返し言われる度に、信じていいんじゃないのかと思えるようになっていった。すべて病気のせい。病気だから死にたくなる。病気だから動けない。病気だから。病気だから。病気だから。
 泥沼に沈んでいくかのようなこころを、そのまま沈もうとしているのを、どうにか伸ばした腕を、カカシは掴んでくれた。大丈夫、俺も一緒にいる、お前はひとりじゃない、一緒に治そう。握られた手の温かさと繰り返される言葉を信じようと思うようになってから、沈み込んでいたこころが少しだけ軽くなった。
 それからは少しずつ、少しずつ、出来ることが増えていった。言葉を口にするのも億劫だったのに、声に出せるようになった。何も感じなかった身体が、空腹を感じたり、尿意を感じるようになった。生きるために行動を起こすようになった。そして今、自分でおにぎりを手に取って、口に運べた。それをまるで我がことのように喜ぶカカシの様子に、俺は自分も嬉しいと感じた。
 嬉しい、なんて感じたら、また頭の中でネガティブな言葉が合唱を始めるのかと思ったら、そんなことはない。こころの波は静かで、嬉しいという感情の水滴が落ちて輪を広げていくようにじんと染み渡っていく。
 今までの自分の状態は病気が作り出していたんだと、はじめて実感した。回復しているのは嬉しいこと。嬉しいことがあったら喜んでいい。ちゃんと食べて、薬を飲んで、飽きるほど横になっていればこの病気は治る――。
「カカシ、俺」
 カカシの胸に顔を埋めながら言葉を口に出した。
「俺も、……嬉しい。もっと良くなりたい。……治したい。」
 カカシはサスケの頭を撫でながら、嬉しそうに言う。
「そう思えるくらい、良くなってるんだよ。今そう思えるのなら、これからどんどん良くなっていくよ。ちゃんと治る。サスケなら大丈夫。でもね、サスケ。」
 頭を撫でる手がサスケの背中に回る。
「この病気は、良くなったり、悪くなったりを繰り返しながら少しずつ良くなっていく。今嬉しいと思っていても、次目が覚めた時はまた死にたいと思うかもしれない。……かもしれない、じゃなくて必ずまたネガティブな波は来る。そうなったとき、今の感覚を思い出してほしい。ずっとつらいままじゃないんだって。ずっと死にたいばかりじゃないって。ポジティブな波も来るんだって。」
 ……また、あの状態に戻る……なんて、考えたくもない。でも、カカシが言うんだからそうなんだろう。でも悪くなっても、波だからいずれまた良くなる。波がきてもまた引いていく。大丈夫だ。今は何の根拠もなくそう思える。波だから、耐えていれば引いていく。大丈夫。カカシもついていてくれる。
「……わかった。覚悟しておく。」
「うん、いい返事だ。サスケならきっと大丈夫だから。俺もいるから。一緒に頑張ろうな。……じゃ、今日もトイレ行ったら身体きれいにして、傷の手当てしようか。」
 カカシはベッドの端に移動して、サスケを抱き抱えながら寝室の扉を開けてトイレに向かう。自分で行ける、と言いたかったけれど、倦怠感は相変わらず酷くて、まだまだ出来ないことの方が多いんだと思い知らされる。無理はしない。ゆっくりでいい。少しずつ出来ることを増やしていけばいい。
 カカシが言った言葉を頭で反復させる。焦らなくていい。今の自分にできることをやれればいい。出来ないことは、カカシが手伝ってくれる。だから大丈夫。
 
 ベッドに戻ってくると、清拭とドライシャンプーをしてから包帯を外して傷の処置をする。ガーゼで傷を覆ってから新しい包帯を巻くと、カカシはまた仰向けになってサスケを上に乗せようとしたが、サスケが断った。
「……今日は、ちゃんとベッドで寝る。カカシも横にいてほしいけど、……今日はカカシの上じゃなくても、大丈夫だ。」
 それを聞いたカカシは嬉しそうに笑った。
「じゃあ、俺がシャワー浴びてる間は影分身つけておくけど、戻ってきたら影分身も消してサスケの隣で寝るね。」
「ああ、そうしてくれ」
「夜中でも、何かあったら遠慮なく起こして良いからね?」
「……わかった。」
 サスケが少し端に移動すると、影分身のカカシが布団をかける。
「寝る前に、薬飲もうか。」
 サスケは腕を伸ばして、手のひらに薬を乗せてもらい、それをもう一方の手でつまんで口に入れる。水の入ったコップを持つのはまだ難しそうだったから、コップを近づけてもらって、そこからはストローを自分で持って口まで運んだ。ごく、ごく、と薬を飲み下す。
「……ありがとう、カカシ。」
 今はカカシの目を見て話せる。カカシは嬉しそうに「また、自分で出来たね」と言ってニコッと笑った。
 ……嬉しい。こんなに些細なことなのに、一緒に喜んでくれる。自分で出来ることが増えたことよりも、カカシが一緒に喜んでくれることの方が嬉しかった。
 例え次に起きたときにネガティブな波が襲ってきたとしても、カカシが一緒に居てくれれば、きっと大丈夫だ。
「ところでさ」
 影分身のカカシがベッドに頬杖つきながら話す。
「寝る前に頓服の薬、飲んだでしょ?飲んでみて、どんな感じだった?またつらいときは飲みたい?」
 サスケは記憶をたぐり寄せる。
 薬を飲んだ、それは覚えている。でもその後は曖昧だ。
「頭がぼんやりして……頭の中の靄が酷くなって……気づいたら、寝て起きてた。……そのくらいしか、覚えてない。けど、カカシがいても耐えられないくらい死にたくてつらいときは、また飲みたい。考えるのを強制的にやめられるような、そんな感じがした。」
 カカシは目を細めて、「そうか……」と呟いた。
「1日に1錠くらいにした方がいいってお医者さんも薬剤師さんも言ってたから、本当につらくて飲みたいときは、俺に言ってね。」
「わかった。……飲みすぎは、良くないんだな。」
「でも本当につらいときは、我慢しないでね?」
「……そうする。」
 カカシがサスケの頭をくしゃっと撫でる。
 カカシがいるし、いざとなったら薬もある。……大丈夫だ。また波が来ても、やりすごせる。
 浴室の扉が開く音が聞こえる。もうすぐ本体のカカシが戻ってくるだろう。影分身のカカシと目が合うと、ニコッと笑顔を見せる。
「なあ、影分身のあんたに話したことって、影分身を解いた後も記憶に残るのか?」
「ちゃんと残るよ、大丈夫。」
「わかった。……眠ってる間も、手だけ握ってて欲しい……。」
「ん、りょーかい。」
 サスケが差し出した手を、影分身のカカシが握る。それだけでほっとする。安心できる。……だから、大丈夫。
 サスケは何度も自分に大丈夫だと言い聞かせる。覚悟しておくとはいえ、また死にたい気持ちで頭がいっぱいになるのは嫌だし、今一旦状態がよくなっているだけに、ネガティブな波が来たときに余計に酷く落ち込みそうな気がするからだ。
 カカシは目を伏せたサスケの手をぎゅっと握った。
「不安だよね。でもきっと大丈夫だから。ね?」
 サスケは静かに頷いて、カカシの手を握り返した。