折れたこころ
任務
朝食後、またサスケは眠りに落ちていった。次起きるのはいつだろうか。こころの調子はどうなっているだろうか。手を握りながらカカシはベッドの上で座り、その寝顔を見守る。
サスケが残したおにぎりを食べながら、次に調子を崩したときの事を考える。いくつもの本に同じように書かれていた。調子が上がったり下がったりしながら徐々に回復していくと。このまま調子が良くなっていくわけではないと。そして介護者も当事者も、調子が落ちた時に強いストレスを感じるのだと。調子が良かった分だけこのまま良くなるのではと期待してしまうため、落ちた時の落差に強い無力感を感じてしまうのだと。
自分も覚悟をしているし、サスケにも話して心づもりはさせたが、実際にそうなったときに一番苦しむのはサスケだ。いくら事前に情報として知っていたとしても、実際にその状態になったらきっとまた強い希死念慮に襲われるだろう。
サイドテーブルに目を向ける。その引き出しの中に、頓服薬が一錠入っている。これを飲んで……また昏睡したかのように眠りに落ちて、そして目を覚ましてもまだ苦しい状態が続いていたらどうする。抱きしめても落ち着かなければまた飲ませるのか? そうして薬に依存するようになってしまったらどうする。……それは、だめだ。やっぱりできる限り俺が、何とかしてやらなければいけない。
少しだけ握る手を放して印を結び、影分身を出した。
もう一度手を握り直し、影分身に朝食の後片付けをさせる。それと、さすがに小さいおにぎり二個ではカカシの腹は満たせなかった。医者の先生に言われた通り、自分の体調管理もしっかりしていかなければならない。片手で食べられる肉と野菜が摂れる料理を作るように影分身に指示を出す。二十分後、影分身が寝室に持ってきたのは回鍋肉丼だった。
「食材がそろそろなくなるよね?」
「ああもうなくなる、買い出しに行くけど……サスケはもうしばらくはおにぎり、か?」
「わからん。全く予想がつかない。色んな状況を想定して買いに行ってきてくれる?」
「ん、了解。……色んな状況、ね。」
影分身が静かに寝室を出ていくと、カカシは右手でサスケの手を握りながら、左手はレンゲを持って丼を口に運ぶ。……肉と野菜を摂りたいとは思ったけど、ちょっと量多すぎじゃない? 自分の分身に文句を言ったところで自分に返ってくるだけだが、あまりに山盛りの肉と野菜にカカシの食欲はどこかに行ってしまった。半分くらい食べて、あとは昼に食べようとサイドテーブルの上に置いてサスケの隣に横になる。
サスケが寝ている時は俺も寝ておかないと。
サスケがいつ起きるかはわからないが、例え一~二時間でも寝ておくと疲労感はだいぶ軽減される。俺のコンディションが悪いとサスケのケアにも支障が出るから出来る限り寝ておきたい。
布団をかぶって目を閉じると、カカシもすぐ眠りに落ちていった。
夢を見ていた。誰かに向かって必死に叫ぼうとしているのに、声が出ない。なんで。声を出さなきゃ。声を、届けないと。叫ばないと。声の出し方がわからない。叫ぼうとしてもかすれた声しか喉から出てこない。苦しい。水の中に沈んでいるかのように息ができない。声が出ない。苦しい。助けて。誰か。誰か。……カカシ。
「……ッカシ……!」
自分の出した声で目が覚めた。はぁ、はぁ、とようやく息ができたような心地だった。嫌な夢を見た。カカシは目の前で眠っていた。俺の手を握りながら。ちゃんと隣にいてくれる。ちゃんと手を握っていてくれる。大丈夫だ。大丈夫。
息を整えていると、どこからか声が響いてくる。馬鹿じゃねえの。朝なのにまた寝てんじゃん。お前のお守りでカカシを疲れさせてんだよ。カカシに負担をかけてんだよ。だからカカシは寝てんだよ。申し訳ないとか思わねえのか。お前なんてさっさと死ぬべきなんだよ。人に迷惑振りまいて何が大丈夫だ。馬鹿じゃねえの。さっさと死ねよ。死んで詫びろよ。
違う……違う、カカシは、俺のことを心配してくれて、生きていて欲しいと言った。死んじゃだめだ。死んで詫びるなんてだめだ。病気が、この声は病気が作ってるんだ。振り回されちゃだめだ。死んじゃだめだ。
カカシが寝返りを打って仰向けになる。その拍子に、握る手が少し緩んだ。
「……あ、……カカ、シ……」
心臓がバクバクする。呼吸が早くなる。
起きて、起きてくれ、カカシ、カカシ、手を、握ってくれ、カカシ。
夢の中にいたときのように声が出せない。叫びたいのに叫べない。サスケはカカシの手をぎゅっと握るが、カカシは眠っていて握り返してはくれない。
起こさなきゃ、カカシを、起こさなきゃ、でも声が出ない。喉に何かが引っかかっているかのようだった。
……カカシはお前のことなんかどうでもいいんだよ。だから寝てるんだよ。お前はカカシに迷惑かけてるだけなんだよ。ほらさっさと死ねよ。生きてる意味なんてねえだろ。カカシはお前のことなんかどうとも思っちゃいねえよ。部下だから気を遣ってるだけで本心はどうでもいいと思ってんだよ。お前に生きてる意味なんかねえよ。早く死ねよ。お前なんか死んだ方がマシだ。早く死ねよ。
「カ、カシ……ッ、カカ、シ、」
喉の奥から声を絞り出すが、その小さな声はカカシに届かない。もっと、大きな声を出さないと。
はぁ、はぁ、はぁ、
……息を、深く、吸えない。助けて、カカシ、助け、
カカシが目を覚ましたとき、隣にいるサスケはうっすらと目を開けたまま浅い息を繰り返しながら両手でカカシの手を握っていた。
「サスケっ、ごめん、寝てた。大丈夫じゃ、ないな? ごめん、サスケ。」
……油断してた。深く眠ってしまっていた。サスケの機微に気付けるよう、浅い眠りにとどめるべきだったはずなのに。
サスケの手を両手で握るが、落ち着く様子はない。左手をサスケの背中に回して抱き締める。それでもサスケの様子は変わらない。
「サスケ、話せるか。今つらさはどのくらいだ。医者の先生のときみたいに、言えるか?」
サスケの口が動く、が、声は出てこない。口の動きで喋ろうとした言葉を読む。
『ひゃく』
サスケを抱き寄せてお腹の上に乗せて抱きしめた。
「ごめん……ごめん、サスケ。つらいときに、ひとりにさせてごめん。もうお前をひとりにしない。ごめん、ごめん。つらいな。苦しいな。」
サスケはなおも浅い呼吸を繰り返す。心臓の鼓動も早い。そして喋れない。その瞳から、じわりと涙が滲む。
また口が動く。声は出ない。じっとその口の動きを見る。
『し、に、た、い』
ぽろ、と涙が溢れてカカシの胸を濡らす。
「……薬、……飲むか、……飲みたいか、……サスケ。」
小さく頷く頭。
カカシはサイドテーブルに手を伸ばし、引き出しを開けた。一錠だけ置いてある、その薬を手に取り、シートから出す。サスケはその薬に向けて手を伸ばした。
「……っ!」
こんなにサスケが苦しんでるときに、俺はのうのうと寝てたのか……! 悔しさ、無力感、苦しさ、俺が感じるこの気持ちなんか、サスケの苦しみには遥かに及ばないはずなのに、こんなにもきついなんて。
サスケの手に薬を載せる。その薬をサスケは迷わず口に入れた。カカシが水の入ったコップをサスケの口元に寄せると、サスケはストローを指で掴んでその先端を口に入れる。
ごくり、ごくり、喉が動いた後、ストローを持っていた手がベッドに落ちる。
はぁ、はぁ、
浅い呼吸のまま、ぽろぽろと涙がカカシの胸に落ちてくる。
カカシ、カカシの、せいじゃ、ない
俺が、弱い、せい
何度も声に出そうとするが、喉に何かがつっかえていて声にならない。伝えることができない。何も伝わらない。カカシは謝り続ける。違う、違うカカシのせいじゃない。全部俺が悪いんだ。俺が弱いせいなんだ。俺がだめなせいなんだ。俺が、俺が……。
俺が……?
思考が輪郭を失っていく。
俺が……なんだ……?
そうだ……だめ……なのは……おれ……
……ごめん……カカ……シ……
サスケの思考が、意識が、薄れていく。何も考えれない。頭の中に響いていた声も遠くなっていく。何もかもが遠くなっていく。意識が途切れる寸前まで、最後まで残っていた感覚は、サスケを抱き締める腕の温かさだった。
落ち着いていく呼吸、ゆっくりになっていく鼓動。目を閉じたまま動かないサスケ。
油断、していた。あんなにも、また必ず悪い状態になると頭に叩き込んでいたのに、少し元気になったサスケを見て、完全に油断していた。こんなにも急に状態が変わるなんて。くそ、くそ、くそ、これが本で読んだ無力感か。……覚悟していたはずなのに、それは想定以上にずんとのしかかるように重い感覚だった。
俺がサスケの変化に気づいてすぐに起きていれば、こんなに悪い状態にはならなかったんじゃないのか。俺のせいでまたサスケがこんなにも苦しむ羽目になったんじゃないのか。俺のせいで、俺の、せいで……!
拳を握りしめていることに気づいてハッとする。駄目だ、俺がこんなんじゃ、サスケのケアどころじゃない。……落ち着け。こう、なってしまったものは仕方がない。何のせいとか後ろ向きな事を考えても仕方がない。重要なのはこれからどうするかだ。悪い波が来ても、必ず波は引いていく。また元気を取り戻せる。そう言って励ますんだ。いくら謝ったところでサスケは前を向けない。俺がしっかりしないと。俺がしっかりケアできないと。そうだ、しっかりしろ、俺。
玄関が開く音がする。影分身が帰ってきたらしい。……元気なサスケがいいと言っても、やっぱりまだ影分身を使った二十四時間の見守りは続けた方がいい。でも、元気なときのサスケの前向きな気持ちを邪魔してもいけない。サスケの様子がおかしい時だけ手を握り声をかける。呼吸だ。サスケの呼吸が乱れている時だけだ。
……また、サスケは声を出せなくなっていた……。できることが少しずつ増えて、順調に回復していると錯覚していた。良い状態と、悪い状態を繰り返しながら少しずつ良くなっていく。何度も、何冊も本で読んでいたはずなのに、俺はなんてバカなんだ。またこんなに悪くなるなんて。またこんな状態になるなんて、思ってもみなかった。……悔しさが込み上げてくる。わかっていたつもりになっていた。きちんと理解できていなかった。
……いや、よく考えろ。当たり前だ。いくら情報を頭に入れていたって、はじめて目の当たりにすることを、現実に起こることを正確に想定するのは難しい。それは今までの経験でよくわかっているはずだろ。想定外が生じるのは当たり前だ。その上でどうするかが大事なんじゃないのか。
落ち着け。冷静になれ。大丈夫だ。
……そう、思おうとしても、サスケのつらそうな姿を見ると堪らない気持ちが込み上げてくる。何とかしてやりたい。俺にできることは全部やる。……頓服薬も、必要なら飲ませる。サスケがそれで一時的にでも楽になれるのなら、何だってやる。……やってやりたい。
……どうにも、冷静になるのは難しかった。
カカシはすぅっと鼻から息を吸い込み、ふぅ……と口からゆっくりと吐き出す。それを何回か繰り返し、続いて両腕にぎゅっと力を込めてから、だらんと弛緩させる。それを全身の筋肉でひと通りやってから、もう一度鼻からすぅっと息を吸い込み、ふぅ……と口からゆっくりと吐き出す。
身体がリラックスして、こころも落ち着いていく。漸進的筋弛緩法、というリラクゼーション手法の一種だ。こころのコントロールは、まず身体から。身体が緊張していたら、こころもリラックスできない。リラックス出来なければ、落ち着くこともできない。
落ち着いて、状況を見るんだ。そして状況に応じて、サスケに必要なのは何かを判断する。俺がするべきなのは、これだけだ。難しく考える必要はない。
落ち着くまでは俺の腹の上にサスケを載せて、サスケの腹部を温めることで安心感を感じさせる。
抱き締めることでリラックスさせてストレスを軽減させる。
サスケの発するサインを注意深く観察して、その感情を傾聴して共感することで孤独感を薄れさせる。
冷静に根拠のある対処をするんだ。
さっきみたいに「ごめん」と繰り返し言ったところで何の意味もないどころか、それじゃマイナスの言葉かけだ。サスケにとって逆効果でしかない。
冷静じゃないから、そんなことをしてしまう。
これはただの看病じゃないんだ。三代目から直々に預かった任務でもある。……任務であるからには、やり遂げるまで、気を抜いてはいけない。自己のコントロールと、冷静さ、判断力、行動、……これからは、気を抜かず徹底する。サスケが、元の自分を取り戻すまで。